真田十勇士は実在したのか? 猿飛佐助や霧隠才蔵が「幸村の家臣」になった意外な経緯

  • 2026/10/07
:歴史学者
真田十勇士の石像(長野県上田市小牧)
真田十勇士の石像(長野県上田市小牧)
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はじめに

 真田信繁(幸村)の家臣といえば、猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」を思い浮かべる人は少なくないだろう。忍術、怪力、槍、鎖鎌、鉄砲など、それぞれ異なる得意技を持つ勇士たちが、知略に優れた真田幸村を支え、徳川家康の大軍を苦しめる。実に痛快な物語である。

 昭和50年(1975)4月から昭和52年(1977)3月まで、NHKでは連続人形劇「真田十勇士」が放送された。全445回に及ぶ長期シリーズで、柴田錬三郎の作品を原作とし、真田幸村と個性豊かな十勇士の活躍を描いた。この番組によって十勇士を知った人も多いだろう。

 ところが、結論を先に述べると、現在知られている「真田十勇士」という10人の家臣団が実際に存在したことを示す確かな同時代史料は確認されていない。それどころか、彼らの主君として知られる「真田幸村」という名前さえ、本人が生前に用いた実名ではない。実名は真田信繁である。

 近年の研究によると、「幸村」という名は信繁の死後に成立した軍記物に現れたもので、大坂の陣当時の同時代史料からは確認できない。また、十勇士についても、江戸時代の軍記、実録、講談などを背景として人物像が形作られ、明治末から大正期にかけて広く知られるようになったものと考えられている。

十勇士にはどんな人物がいたのか

 一般に真田十勇士と呼ばれるのは、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人である。作品によって「穴山小介」などと表記する場合もあり、細かな人物設定も必ずしも一定していない。

 もっとも有名なのは猿飛佐助である。後世の物語では、信濃国の鳥居峠付近に住む郷士の子とされ、甲賀流忍術の達人・戸沢白雲斎から忍術を学んだ。やがて真田幸村に仕え、諸国を巡って情報を集め、忍術を駆使して敵を翻弄する。

 もっとも、戸沢白雲斎も史料上その実在を確認できる人物ではない。猿飛佐助については、実在した忍者や武士をモデルとする説がいくつか唱えられているものの、それを確実に裏付ける同時代史料はない。したがって、特定の人物を佐助のモデルと断定することはできない。

猿飛佐助(『猿飛佐助 : 真田三勇士 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
猿飛佐助(『猿飛佐助 : 真田三勇士 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 猿飛佐助と並んで有名なのが霧隠才蔵である。物語では、近江の浅井氏に仕えた武士の遺児とされ、伊賀で忍術を身につけたという。甲賀流の佐助に対して伊賀流の才蔵という対照的な設定が与えられ、2人は好敵手であると同時に、幸村を支える忍者として描かれた。

 三好清海入道と三好伊三入道は兄弟とされ、忍術ではなく怪力を誇る豪傑として登場する。清海は十勇士を代表する大力の持ち主で、弟の伊三とともに真田方に加わり、上田の戦いや大坂の陣で活躍するという物語になっている。

 由利鎌之助は、槍や鎖鎌を得意とする人物である。物語では、最初から真田方にいたわけではなく、真田方の人物との対決を経て幸村に仕えるという展開も描かれた。強敵が主人公側の力量を認め、味方になるという大衆読物らしい人物設定である。

 穴山小助は武田氏に関係する家柄の出身とされることがあり、幸村と体格が似ていたため影武者を務めたという話も知られている。大坂夏の陣では幸村の身代わりとなり、家康の本陣へ突入するという劇的な最期が語られた。

 根津甚八も、後世の物語では幸村の影武者として描かれることがある。大坂夏の陣で「真田幸村」を名乗って徳川方と戦ったという物語も、幸村を英雄化する過程で生み出されたものと考えられる。

 海野六郎、望月六郎、根津甚八の名字にも注目したい。真田氏は系譜上、信濃の滋野氏や海野氏につながると伝えられており、海野、望月、根津などはいずれも信濃の歴史を連想させる名字である。こうした名前を用いることで、創作上の人物にも歴史的な現実感を持たせることができたのであろう。

 筧十蔵は鉄砲の名手として描かれ、望月六郎は火薬を扱う人物とされた。このように、十勇士には忍術、怪力、鎖鎌、鉄砲、火薬、影武者など、それぞれ異なる役割が割り当てられている。

 現在の漫画やアニメでいえば、異なる特殊能力を持った人物たちで構成された集団に近い。十勇士が長く人気を保った理由の1つも、一人一人の特徴が非常にわかりやすかったことにあるだろう。

「真田幸村」も後世に作られた英雄だった

 十勇士の成立を考えるには、その主君とされる「真田幸村」の英雄像がどのように形成されたのかを知る必要がある。

 慶長20年(1615)5月7日、真田信繁は大坂夏の陣で徳川方と戦い、討死した。信繁が大坂の陣で激しく戦ったこと自体は、もちろん後世の創作ではない。信繁は実在する武将であり、大坂方の武将として徳川軍と戦ったことも史実である。

 しかし、史実上の「真田信繁」と、後世の物語で知られる「真田幸村」との間には大きな隔たりがある。

 その英雄像を形成するうえで重要な作品の1つが『難波戦記』である。近年の研究によると、同書は寛文12年(1672)頃までには成立したと考えられている大坂の陣を扱った軍記物で、信繁を「幸村」と記した初出とされている。

『絵本難波戦記』に登場する真田幸村(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『絵本難波戦記』に登場する真田幸村(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 つまり、「幸村」という名前は大坂の陣当時の史料に確認されるものではなく、信繁の死から半世紀以上を経たのち、軍記物の世界に登場したことになる。

 その後、真田氏をめぐる物語は軍記、実録、講談などによって繰り返し語られた。その過程で信繁は、大坂方に属した一武将から、徳川家康を苦しめるほどの知略と武勇を持つ英雄「真田幸村」へと変化していった。

 幕末近くになると、真田昌幸、幸村、大助らの活躍を描いた『真田三代記』のもとになった実録体小説が成立したと考えられている。そこでは史実に多くの伝承や創作が加えられ、真田氏の物語が大きく膨らんでいった。

 『真田三代記』やその周辺の作品には、穴山、由利、海野など、のちの真田十勇士につながる名前が見える。また、三好兄弟や根津など、十勇士を連想させる人物も近世の真田物語に登場する場合がある。

 ただし、現在知られている10人が、最初から「真田十勇士」という1つの集団として『真田三代記』に登場したわけではない。この点には注意が必要である。

 つまり、江戸時代には十勇士につながる人物や物語の素材が徐々に蓄積されていたのであり、それらが後の時代に整理され、新しい人物も加えられたのである。

立川文庫で十勇士のイメージが定着

 真田十勇士を現在に近い形で広く知らしめたのが、明治末から大正期に大阪の立川文明堂が刊行した「立川文庫」である。

 立川文庫は明治44年(1911)に刊行が始まった小型の大衆向け読み物で、講談をもとにした作品のほか、創作を大幅に加えた作品も刊行された。とりわけ忍術を扱った作品が少年読者から人気を集めた。

 その代表作が、大正初期に刊行された第40編『猿飛佐助』である。佐助は戸沢白雲斎から忍術を学んだのち、真田幸村に仕える。そして諸国で活躍する過程で、由利鎌之助や霧隠才蔵などと対決し、彼らを仲間に加えていく。

 『猿飛佐助』は大きな人気を博し、その後、霧隠才蔵、三好清海入道、由利鎌之助などを主人公とした作品も刊行された。十勇士の各人物に性格や得意技が与えられ、それぞれ独立した英雄として活躍するようになったのである。

 つまり、真田十勇士は、誰か1人が一度に10人すべてを創作したものではない。江戸時代以来の真田物語に登場していた人物や名前を材料にしながら、新しい人物と設定が加えられ、明治末から大正期に現在につながる十勇士のイメージが定着していったのである。

なぜ十勇士は「実在した」と思わせるのか

 以上を踏まえると、「真田十勇士は実在したのか」という問いには、「現在知られている10人からなる家臣団が実在したことは確認できない」と答えるのがもっとも妥当である。

 猿飛佐助や霧隠才蔵が真田信繁の命令を受け、忍術を使って徳川方の情報を探ったことを示す同時代史料はない。三好清海入道や由利鎌之助らについても、後世の軍記や実録に同名・類似名が現れることと、近代に描かれた十勇士としての人物が実在したこととは別問題である。

 ただし、十勇士が完全な無から生み出されたわけではない。真田信繁は実在し、大坂の陣で徳川軍と戦って討死した。真田氏が信濃を本拠とし、徳川氏と上田で戦ったことも史実である。

 そうした実際の歴史を舞台に、海野、根津、望月など信濃を連想させる名字や、穴山のように武田氏を思わせる名字を配置した。さらに忍術、鉄砲、鎖鎌、火薬、影武者などを組み合わせたため、創作でありながら「本当にいたのではないか」と思わせる現実味が生まれたのである。

 そして何より、信繁自身の生涯、とりわけ大坂夏の陣での最期が劇的だった。劣勢の大坂方に属して徳川軍と戦い、最後は戦場で命を落とした。信繁が英雄化されれば、「この名将の周囲には、並外れた家臣たちがいたに違いない」という想像が広がるのも不思議ではない。

 17世紀の『難波戦記』などによって「真田幸村」という英雄像が形成され、近世の実録や講談によって物語がさらに膨らんだ。そして明治末から大正期の立川文庫によって、猿飛佐助や霧隠才蔵ら個性的な勇士たちが広く知られるようになった。

 真田十勇士は、戦国時代に実在した10人の家臣の記録ではない。むしろ、実在した真田信繁を核として、江戸時代から明治・大正、そして昭和へと、人々の想像力によって育てられてきた人物群だった。

 その意味で真田十勇士は、史実上の真田家臣団ではないものの、長い年月をかけて作り上げられた「もう1つの真田史」と呼ぶことができるのである。

【参考文献】
  • 足立巻一『立川文庫の英雄たち』(中公文庫 1987年)
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  この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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