緒方洪庵の功績とは? 幕末・維新の俊秀が集った「適塾」と天然痘の脅威から救った「除痘館」
- 2026/09/10
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緒方洪庵は「日本近代医学の祖」と言われ、除痘館を創設して天然痘の予防と治療に大きく貢献しました。また、蘭学塾「適塾」を開き、幕末から明治を支える多くの人材を育てるなど、その功績は計り知れません。
これからは漢方より蘭方
緒方洪庵は文化7年(1810)7月、備中国足守藩士・佐伯瀬左衛門の三男として生まれました。16歳で元服しますが、生まれつき病弱で武道に向かなかったため医師を志します。当時は漢方医学が全盛の時代でしたが、猖獗(しょうけつ)を極めるコレラに対して成す術もない漢方に限界を感じ、西洋医学の道を歩むことを決意。父の任地であった大坂で、蘭方医・中天遊(なか てんゆう)の蘭学塾「思々斎(ししさい)塾」に入門しました。22歳の時、天遊の勧めにより江戸の蘭方医・坪井信道(しんどう)に師事します。信道は洪庵の才能を見抜いて塾頭に抜擢し、自身の師であり江戸蘭学の重鎮であった宇田川榛斎(しんさい)に紹介しました。榛斎から2年間医学・薬学を学んだ洪庵は、榛斎の死に際して後事を託され、26歳で一旦大坂へ戻ります。
天保7年(1836)に長崎へ留学したのち、天保9年(1838)に大坂で蘭学の私塾「適塾」を開きました。同年7月には、中天遊と親交のあった億川百記(おくかわ ひゃっき)の娘、17歳の八重と結婚します。百記は紙漉(す)きの里として知られた名塩(現・兵庫県西宮市)の生まれで、思々斎塾で医術を学び、郷里で開業して製薬や販売も手掛けていました。この裕福な義父の実家が、生涯にわたり洪庵の財政面を支えることになります。
幕末・維新の俊秀が集った「適塾」
さて、緒方洪庵といえば「適塾」と言われるほどの有名塾ですが、どんなところだったのでしょうか。正式名称の「適々斎塾」は、洪庵の号である「適々斎」から名付けられました。天保9年の開塾から明治元年(1868)に閉鎖されるまでの30年間で、実に二千人を超える入門生がいたとされています。
いち早く獣肉食に馴染んでいた福沢諭吉は、当時の様子をこう振り返っています。
「およそ大坂の牛鍋屋で見かけるのは、ごろつきか適塾の塾生ばかりだ」
彼自身も適塾生だったわけですが、ごろつきと同列に扱われるほどの荒くれ者でもあった塾生とは、一体どのような人々だったのでしょうか。
適塾に入門するには、洪庵・塾頭・そして塾へ礼金を納め、「姓名録」に記帳します。そこに記された名を辿ると、そうそうたる顔ぶれが並んでいます。
近代日本陸軍の創設者で“日本陸軍の父”と呼ばれる大村益次郎、松平春嶽の懐刀と呼ばれ、安政の大獄で刑死した橋本左内、戊辰戦争で旧幕府軍を率いて五稜郭に籠城した大鳥圭介、手塚治虫の曾祖父である医師の手塚良仙、“日本赤十字社の父”佐野常民をはじめ、他にも長与専斎・高松凌雲・箕作秋坪・高峰譲吉など…。
適塾は、松下村塾や長崎海軍伝習所と並び、幕末・維新の俊秀が集った伝説の地として知られています(現在、姓名録は日本学士院が所蔵)。
適塾生の勉学生活
塾内には厳格な席次制度があり、月に数回行われる輪読会(会読)の成績によって席次が決まりました。塾生たちは1つでも上の席を目指して猛勉強し、順位は目まぐるしく入れ替わります。輪読会では、オランダ語の医学書や科学書を順番に翻訳していきます。誤訳があれば即座に鋭い指摘が飛び交い、正確に訳せた者が高く評価されました。この評価で3ヶ月以上最上席を維持できた者だけが、上級に進むことが許されたのです。
オランダ語の解読には、当時極めて貴重だった蘭和辞書『ヅーフ・ハルマ』を使いこなす必要がありました(ヅーフとは寛政年間に来日した出島オランダ商館長で、日本人通詞らとともにこの辞書を編纂しました)。
塾に1冊しかない手書き写本のこの辞書は争奪戦となり、辞書が置かれた「ヅーフ部屋」には常に塾生が詰めかけ、夜中に明かりが消えることはありません。ランプの油が切れると、他の部屋から油をこっそり持ち出してまで勉強を続けたといいます。医学だけでなく物理や化学の原書も読まれ、福沢は「(適塾時代)凡そ勉強ということについては、この上にしようもないほどに勉強した」と述懐しています。
多くの塾生は貧しく、粗末な食事と狭い部屋での共同生活を送りました。三十畳ほどの大部屋に詰め込まれ、与えられたスペースは1人につきわずか畳一畳。そこに寝具と机、身の回りの品を置く過酷な環境です。食事は5日周期のローテーションで、1と6のつく日は「葱とサツマイモの難波煮」、5と10のつく日は「豆腐汁」、3と8のつく日は「シジミ汁」と決まっていました。天神橋や天満橋の魚市場で残り物を安く仕入れ、食べる時も立ったままです。諭吉はこれを「百鬼立食」と言っています。
そんな極貧生活の塾生たちですが、オランダ書籍の写本をするアルバイトがあり、十分な塾費を賄うことができたといいます。
医療施設「除痘館」の開設
適塾と並び、いや…それ以上に洪庵の偉大な功績として挙げられるのが「除痘館(じょとうかん)」です。これは嘉永2年(1849)に洪庵が蘭方医の日野葛民(かつみん)らとともに大坂・道修町(どしょうまち)に開設した種痘所であり、薬種問屋の大和屋喜兵衛が私財を投じて財政面から支援しました。日本における牛痘種痘法の多くは幕府や諸藩の庇護を受けて行われましたが、民間で普及に尽力した医師も多く、洪庵もその1人でした。
世界中で猛威を振るった天然痘ですが、日本も例外ではありません。徳川十五代将軍のうち6人が罹患し、洪庵自身も幼少期に感染しています。幸い軽症で済みましたが、当時は毎年、全人口の1%以上が天然痘によって命を落としていたとされます。
幕末には開国に伴う人の移動でコレラが大流行し、多くの犠牲者を出しましたが、長年にわたる累積死者数や社会に与えた影響の深刻さで見れば、天然痘の脅威のほうがより深刻なものでした。
痘苗を運ぶのも一苦労
イギリスのジェンナーが開発した「牛痘種痘法」に用いる牛痘苗(とうびょう)は、嘉永2年(1849)6月、バタビア(現ジャカルタ)を経由して日本へもたらされました。オランダ商館医モーニッケにより、長崎の佐賀藩医・楢林宗建(ならばやし そうけん)の息子らに接種され、初めて成功を収めます。牛痘苗とは、牛痘にかかった牛の水疱から採取したウイルスを含む液体のことで、これを人の皮膚に小さな傷をつけて接種し、軽微な免疫反応を起こさせることで天然痘への抗体を獲得させます。この痘苗が早飛脚で京都へ届けられたと知るや、洪庵と葛民はすぐさま京都へ駆けつけ、痘苗を貰い受けることが出来ました。
ジェンナーが種痘法を発見した当初、牛痘にかかった牛から直接採取した液を使っていました。しかし当時の日本では生きた感染牛から直接採取するのが極めて困難だったため、種痘を受けた人の腕にできた膿疱から痘苗を採取し、次の人間へ接種していく「人痘法」が主流でした。
長崎から江戸や大坂へ痘苗を運ぶ際は、道中の子どもたちに順番に接種を繰り返し、いわば“生きた人間”を介してリレー形式で運搬したのです。注射を怖がる子どもには「飴をあげるから」となだめすかし、接種を受けた子は駕籠(かご)に乗せるなどして大切に扱いました。やがて、膿液をガラス管に密封したり、かさぶたを乾燥させて保存・輸送する工夫もされ、洪庵が京都で譲り受けたのもこの保存痘苗でした。
大坂除痘館の果たした役割
大坂除痘館は、庶民に無償で種痘を施しました。これにより数多くの子供たちの命が救われたことはもちろんですが、除痘館が果たしたもう一つの重要な役割は、痘苗を絶やさずに保存・管理する「供給拠点」となったことです。生きたウイルスである痘苗の安定供給を継続的に維持することで、いつでも種痘が可能な体制を整えました。さらに除痘館を中心として、西日本各地に痘苗を分配する「分苗所」が次々と設立されます。大和屋喜兵衛の援助もあり、わずか5ヶ月で64ヶ所ものネットワークが構築され、種痘は急速に普及していきました。実際に天然痘を予防できた実績は、西洋医学(蘭方)への強い信頼を生み、日本の医学近代化を押し進める大きな原動力となったのです。また、適塾の塾生たちにとっても除痘館は臨床現場であり、西洋医学の実践的な教育の場として大いに機能しました。
おわりに
このような先人たちの努力にもかかわらず、幕末から明治・大正・昭和前期にかけて天然痘の流行は繰り返され、明治期だけでも大阪府下で多くの人々が亡くなっています。「種痘を受けると牛になる」といった根拠のないデマも飛び交い、予防医療が庶民に広く受け入れられるまでに時間がかかりました。しかし地道な普及運動の積み重ねの末、昭和55年(1980)、世界保健機構(WHO)は第33回総会に於いて、地球上からついに天然痘が根絶したことを宣言します。緒方洪庵らが撒いた一粒の種は、130年の時を経て、人類史上に残る偉業へと結実したのです。


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