明治の世に生き残った斎藤一は会津藩に殉じようとしたのか?

  • 2026/09/22
藤田五郎と改名した斎藤一とその家族の写真(出典:Wikipedia)
藤田五郎と改名した斎藤一とその家族の写真(出典:Wikipedia)
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 幕末の京都で志士たちに恐れられた新選組隊士の斎藤一は、会津藩とともに新政府軍と最後まで戦い、会津藩の人々とともに明治の世に生き続けました。
 斎藤一と会津藩との深い結びつきについて紐解いてみましょう。

戊辰戦争に従軍する斎藤一

 慶応4年(1868)、新政府軍と旧幕府軍が激突した鳥羽伏見の戦いが勃発しました。新選組は旧幕府軍の一員として激しい戦いを繰り広げますが、そのなかに斎藤一の姿もありました。

 江戸に帰還した新選組は、甲陽鎮撫隊と名を変えて甲州へと進軍しますが、勝沼の戦いで惨敗を喫します。これを機に、古参隊士の永倉新八や原田左之助らが隊を離れますが、斎藤は近藤勇、土方歳三らとともに流山(千葉県)で立て直しを図ろうとしました。

 ところが、新政府軍によって近藤が捕らえられるという危機に陥ります。近藤の助命嘆願のために単独行動をとった土方に代わり、新選組を率いたのが斎藤でした。斎藤は北上しながら、奥羽越列藩同盟の要となる会津藩を目指したのです。

会津か、合流かで土方歳三と分裂

 斎藤率いる新選組は、会津藩とともに白河口を死守する戦いに挑みますが、新政府軍の圧倒的な戦力の前に敗れ去り、撤退を余儀なくされます。

 会津藩に入った新選組は土方歳三と合流し、鶴ヶ城城下への防衛線である母成峠に陣を張りました。そこに新政府軍の主力軍が襲い掛かります。新選組はよく戦ったのですが、多勢に無勢で防衛線を突破されてしまうのです。

 鶴ヶ城攻城戦が時間の問題となった時、新選組は二つの選択を迫られます。一つは会津とともに戦う道、もう一つは会津を離れて旧幕府軍に合流する道。

 土方は合流する道を考えていましたが、斎藤は「会津で戦うべき」だと主張。二人の意見が割れてしまった新選組は、ここで分裂することになったのです。

 斎藤の胸の内を察すると「京都でさ迷いかねなかった自分たちに手を差し伸べてくれた会津藩主・松平容保に対し、今こそ忠義を尽くすべきだ」との強い信念があったのだと思われます。

壮絶な如来堂の戦いを経て

 斎藤ら会津残留一派は、鶴ヶ城の西にある如来堂に立てこもり、新政府軍との徹底抗戦に臨みます。会津藩からの援軍が期待できない孤立無援の新選組は、新政府軍の猛攻にさらされてしまったのです。

 如来堂の戦いで新選組は全滅したと言われ、斎藤も戦死したと思われていました。ところが、斎藤は熾烈な会津戦争のなかで何とか生き抜き、いつの間にか会津藩士にまじって捕虜になっていたそうです。

 新選組を壊滅させてしまったのは痛恨の極みだったでしょう。会津藩のために勇猛果敢に戦い抜いた斎藤の胸中は「やるだけのことはやった」という思いだったのか、あるいは「会津に殉じるつもりだったが死ねなかった」との思いだったのでしょうか。

 会津藩は改易ののち、青森県下北の地で斗南藩として細々と復活します。「藤田五郎」と名を改めた斎藤も、斗南藩士として下北へと赴いたのでした。

おわりに

 斗南から東京に移り住んだ斎藤一こと藤田五郎は、元会津藩士の娘・高木時尾と結婚します。上仲人を元藩主の松平容保、下仲人を家老だった佐川官兵衛と山川浩が務めたのです。

 会津の殿様に仲人をしていただいた・・・「会津藩に殉ずる覚悟」で戦ってきた斎藤の忠義が報われた瞬間だったかもしれませんね。

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  この記事を書いた人
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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