『平家物語』を広めた琵琶法師の歴史──芸能と宗教を背負った盲目の表現者たち

  • 2026/08/06
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 小泉八雲の代表作『耳なし芳一』。主人公の芳一は、琵琶を弾きながら物語を語る盲目の法師(琵琶法師)です。特に『平家物語』の語り手として名高く、壇ノ浦の古戦場近くにある阿弥陀寺の住職に気に入られ、寺の一間を与えられて暮らしていました。そんな芳一の元を、ある夜、怪しげな者が訪れ……。

 このような物語で知られる琵琶法師ですが、実際の彼らはどのような存在だったのでしょうか。

琵琶法師の誕生

 正倉院の宝物の中に「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」という見事な琵琶があります。これは奈良時代に唐(中国)から日本へもたらされたとされています。琵琶の起源は西アジア(ペルシャ周辺)にあり、中国で改良され、日本へと渡ってきました。平安時代に宮中で持て囃された楽器で、『源氏物語』にも明石の君とその父である明石入道、さらには年甲斐もない色好みの源典侍など、琵琶の名人上手の話がいくつも出てきます。

 一方、奈良・平安時代には盲目の僧侶が琵琶を弾きながら経文を唱える(読誦する)習慣が始まり、これがのちの琵琶法師の源流になったと考えられます。鎌倉時代になると、寺社の由来(縁起)や武士たちの戦いを描いた合戦物語を琵琶の弾き語りで演じ、投げ銭を得て生計を立てるようになりました。より多くの客を集めようと、次第に娯楽的な要素が強くなって行きます。

当道座が組織される

 鎌倉・室町時代に入ると、『平家物語』が成立し、琵琶法師たちの弾き語りによって全国に広められ、彼らの芸も全盛期を迎えます。しかし当初、彼らは社会の枠組みから外れた「河原者」や「散所非人」などと同程度の下位身分として扱われていました。

 そうした中、中世から近世にかけて、日本の男性盲人たちによる「当道座(とうどうざ)」と呼ばれる互助組織(職能組合)が結成されていきます。当道座はもともと、琵琶法師の中でも『平家物語』を語る「平曲(へいきょく)」の演奏家たちの職能組合として始まりましたが、やがて琵琶法師以外の盲人の職業も含むようになり、強力な互助組織へと発展していきました。

 室町時代には、高名な琵琶法師である明石覚一(あかしのかくいち)が室町幕府の庇護を受け、組織の基盤を整備します。その後も室町幕府、戦国大名、そして江戸幕府といった時の権力者から公認され、手厚い保護を受け続けました。

『秀雅百人一首』に描かれた明石覚一(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『秀雅百人一首』に描かれた明石覚一(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 これにより盲人たちは排他的、かつ独占的に特定の職業に従事する権利を得て、経済的な自立を図ることができました。覚一のように優れた技術を持つ琵琶法師は権力者の庇護を受けて高い地位を得て、権力者側も彼らを保護・管理することで社会の安定を図りました。

 当道座の中には厳格な階級制度(盲官)が存在しました。最高位の「検校(けんぎょう)」をはじめ、「別当(べっとう)」「勾当(こうとう)」、最下級の「座頭(ざとう)」という四官(よんかん)の階級が設けられていたのです。

 本部は京都に置かれて全国の盲人を統括し、トップである検校の中には、時に十万石の大名にも匹敵する経済力や影響力を持つ者もいたといわれます。この当道座という組織は、明治時代初期に「盲官廃止令」によって解体されるまで、盲人たちの生活保障と職業訓練を支える極めて重要な役割を果たし続けました。

芸能者であり、宗教者だった琵琶法師

 南北朝時代の琵琶法師には、流派の「名乗り」から見て少なくとも3つのグループが存在したようです。

 1つ目は、名前に「一」をつける一方流(いちかたりゅう)で、物語の『耳なし芳一』もこのグループの名残といえます。2つ目は名前に「城」をつける城方流(じょうかたりゅう)、3つ目は名前に「真」をつける真方流(しんかたりゅう)です。これらの名乗りは室町時代中期までに、主に「一」と「城」の2つの流派へ統合されていきました。

 琵琶法師の最大の功績は「平曲(へいきょく)」と呼ばれる『平家物語』の弾き語りを通じて、戦乱の時代の物語を全国に広めたことにあります。現在、最も広く知られている『平家物語』の本文は、室町時代の琵琶法師である明石覚一が語り伝えた『覚一本』がもとになっています。

 琵琶の伴奏に合わせて物語を語るスタイルは、人々の口から口へ語り継がれる中で表現や構成が工夫されてより面白くなり、また識字率が高くなかった当時の人々にとって、歴史の出来事や武士の生き様を伝える貴重な手段となりました。

 また、彼らは寺社の境内や市など人々が集まる場所で語りを行い、金品を得ていましたが、もともとは盲目の僧侶なので、仏教(特に『法華経』)の教えを広めるためにも琵琶を弾きます。その行為は地神信仰や荒神信仰とも結びつき、時には祈祷や祭祀を行うこともありました。

 このように琵琶法師は、単なる芸能者にとどまらず、人々の信仰を集める宗教者としての一面も併せ持っていたのです。

『平家物語』の成立と琵琶法師

 『平家物語』は作者不詳の軍記物語です。『竹取物語』、『浦島太郎』、さらには『古事記』も作者不詳ですが、多くの人々が語り伝え、書き記していく過程で、無駄な部分が削られ、新しい話が付け加えられながら洗練されていきました。『平家物語』もまさに同じような道筋を辿って完成した作品です。

 寿永4年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に敗れると、まもなく武士や貴族の間で彼らの興亡の物語が語られ始めました。そして同年6月には京都を大地震が襲います。その様子を『平家物語』はさっそく、次のように平家の怨霊と結びつけて物語に取り入れます。

「十全の帝王御身を海底に沈め大臣・公卿その首を獄門にかけらる。昔より今に至るまで怨霊は恐ろしき事なれば」

(天子様が海に沈み、重臣たちが打ち首になった。昔から怨霊ほど恐ろしいものはない)

 その後に起きた文治地震では、平清盛が元凶とされました。

「竜王動くとぞ申し、平相国竜になりてふりたると世には申しき」

(平清盛が龍となって現れ、暴れたのだ)

 こうして『平家物語』の骨格は13世紀前半(鎌倉時代前期)に形作られたと考えられていますが、そこから数百年の歳月をかけ、琵琶法師たちが世の中の出来事を取り入れ、面白くない部分は削り落としながら、口承によって成長・発展させていきました。

 ただし、物語の骨子は、知識人や貴族が関与していたと推測されています。特に有力な説とされているのが、「信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)」という人物が草案を書き、それを「生仏(しょうぶつ)」という盲目の僧に教えて語らせた、という記述(『徒然草』などによる)です。

時代の変化と衰退

 江戸時代に入り、平和な時代が続くと、人々の関心は『平家物語』から離れ、より娯楽性の高い三味線音楽へと移っていきます。これに伴い、盲目の法師たちも琵琶から三味線へと楽器を持ち替えます。東北の「奥浄瑠璃」や「津軽三味線」のルーツも、こうした座頭(盲人の芸能者)が弾く三味線の系統です。こうして平曲を語る琵琶法師は減少し、当道座における盲人たちの活動の中心も、芸能から鍼灸や按摩(マッサージ)へとシフトしていきました。

 しかし、中国地方から九州一円にかけては、座頭による琵琶が地鎮祭や荒神払いなどの民間行事と密接に結びついており、江戸時代後期にも盲目法師の琵琶演奏が続きました。それでも時代の波には逆らえず、戦後は急速に後継者を減らしていきます。

 1980年代の段階で、「段物(だんもの)」と呼ばれる長編の琵琶弾き語りを語ることができる法師は、福岡県に2名、熊本県に3名、鹿児島県に1名を残すのみとなっていたそうです。しかし、彼らが語り継いだ『平家物語』は日本の古典文学の金字塔として残り、その精神は現代の日本の文化や物語にも深く影響を与え続けています。

おわりに

 平成22年(2010)に亡くなられた永田法順(ながた ほうじゅん)師は、宮崎県延岡市にある天台宗浄満寺の第十五世住職であり、日本で“最後の日向琵琶法師”として知られた人物でした。

 永田師は生涯にわたり、千軒近い檀家を一軒一軒訪ね歩きました。そして琵琶の伴奏に合わせて、仏教説話や教えを分かりやすい言葉で語る叙事詩「釈文(しゃくもん)」を吟じ、人々のために加持祈祷を行う生活を最期まで続けられたのです。

【参考文献】
  • 兵藤裕己『琵琶法師──〈異界〉を語る人びと』(岩波書店 2009年)
  • 山下宏明『琵琶法師の平家物語と能』(塙書房 2006年)
  • 武田佐知子(編『一遍聖絵を読み解く』(吉川弘文館 1998年)
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  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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