「純正化学は役に立つ」帝大教授・池田菊苗の執念が生んだ「味の素」とイノベーションの全貌
- 2026/09/25
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旨味を作り出せば大いなる喜びとなる
甘い・塩辛い・酸っぱい・苦い。これらに加わる「第5の味」として「旨味(うま味)」を見出したのが、東京帝国大学理学部化学科の教授であった池田菊苗博士です。池田は「日本の十大発明」の一つとされる旨味成分、昆布から抽出した「L-グルタミン酸ナトリウム」を発見しました。つまり「世の中には旨味という味覚があるのだぞ」と伝えたのですね。電解質溶液論を研究テーマの一つとしていた池田は、グルタミン酸それ自体には味がなくとも、水に溶けてイオン化することで美味しくなるそうです。
池田がこの発見に至ったのは、かねてより「旨味の本質とは何か」に関心を持っており、その研究対象として古来より日本料理の出汁に使われてきた昆布を選んだとされます。そして、この発見にはもう一つ有名な逸話が残されています。
ある日、夫人が買ってきた上等な昆布で湯豆腐を味わいながら池田は、こう考えました。
そして研究を始めたというのです。
純正化学は役に立つのだ
なぜ旨味の発見に、ニュートンの「りんご」やワットの「鉄瓶の蓋」のようなドラマチックな逸話が伝わっているのでしょうか。それには、この物質の商品化が深く関わっています。池田が特許を出願したのは明治41年(1908)4月24日のことです。研究に着手してからわずか1年足らずという極めて短い期間で書き上げた出願文書でした。それゆえ、のちに「池田の発見は外国技術の模倣に過ぎない」との特許無効訴訟を起こされ、それに対抗するために「発見が独創的」であるとの証明が必要だったのです。湯豆腐を味わう中で着想を得たというならば、外国の模倣には当たりません。この逸話は、池田自身が後輩の発行した書籍に寄せた寄稿文の中にも記されています。
当時の日本の特許法では「物質特許(化学物質そのものへの特許)」が認められていなかったため、グルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法として申請が行われました。その結果、同年7月25日という異例の速さで「特許第14805号」として認可されました。
池田が素早く特許申請を行った背景には、自身の家計事情もありましたが、それ以上に次のような強い思いがありました。
「純正化学が工業上より見て無用の長物に非ざらん事を例示せん」
※訳:「純粋化学(基礎研究)が、工業(実社会の産業)から見て、決して役に立たない無駄な長物ではないということを、自ら証明してみせよう」
当時、純粋に物質の構造や性質を追究する「純正化学」の研究者は、世間から「理屈をこねるばかりで役に立たない」と見なされており、化学科の卒業生には実業界への就職口がほとんどありませんでした。この現状を憂えた池田は、化学が社会の役に立つ実用的な学問であることを証明しようとしたのです。
実業界からの接触
製品化に向けては、特許出願の段階からすでに起業家との接触がありました。「鈴木製薬所」の二代目・鈴木三郎助です。
鈴木は明治20年代から神奈川県葉山で海藻からヨードを抽出する事業を営み、その副産物として火薬原料の硝酸カリウムも製造していました。
日露戦争を通じて資産を蓄え、明治40年代の不況期に新たな事業を探していた鈴木は、池田の研究室を訪ね、この抽出された旨味成分の将来性をいち早く見抜きます。池田もまた、化学工業界で知られていた鈴木こそ事業を成功させられる人物だと確信し、製造の企業化を正式に依頼しました。
しかし、事業化には莫大な設備投資が必要です。すでに昆布や鰹節があるのに、旨味の素などが世間に受け入れられるのかも疑問です。そこで鈴木は商品化にあたり、食通と呼ばれる人たちに意見を聞くなど入念に準備を進め、「これなら行ける」と確証を得ます。
事業化を決意した鈴木は池田に特許の共有を申し入れ、本格的な新調味料の製造に着手。ここに、今なお残る「味の素」という名前が誕生しました。
売れすぎてやっかみの妨害
明治42年(1909)5月、世界初の旨味調味料「味の素」の一般販売が開始されます。しかし当初「味の素」は全く売れませんでした。それまでにない新しい調味料に警戒感と拒否反応が湧いたようです。
そのぐらいは予想していた鈴木は、中央区京橋一丁目に味の素本舗事務所を開設します。当時の東京の商業中心地であった日本橋~銀座エリア一帯が、販売活動の拠点としてふさわしいと判断したのです。広告展開や値下げなどの販促活動を精力的に行なった甲斐もあり、やがて「味の素」は飛ぶように売れ始めます。こんな手軽な調味料を使わない手はありません。大正6年(1917)には資本金300万円の株式会社「鈴木商店」が誕生しました。
しかし他人の成功は世間のやっかみを買うもの。昆布や鰹節などを扱う業者からの妨害が始まりました。有名なのが「原料がヘビ」という悪意ある噂(蛇原料説)です。著名なジャーナリスト・宮武外骨が、「味の素」と書かれた汁椀からヘビがにょろにょろと這い出すイラストを雑誌に面白おかしく掲載したことで広まったとされています。昭和2年(1927)に「味の素」が宮内省の買上品に指定されたことで噂は下火になりますが、完全に偏見が消え去るまでにさらに長い時間を要しました。
それ以外にも、自分たちと取引のある小売店に「味の素を店に置かないようにしろ。もし置いたらこちらの商品は卸さない」と圧力をかけたり、実際に店頭に並んだ「味の素」を隠したり目立たない場所に移動させたりする実力行使まで行われました。
さらに大正末期になると、開示された基本特許の記載に基づいて次々と類似品が作られて市販される事態となります。それらの多くは粗悪品で86種にも達しました。さすがに「味の素」の評判や売れ行きにも悪影響を及ぼしたため、鈴木側は特許侵害を理由に仮処分や示談交渉を進め、1つ1つ排除していきました。
特許権の期間延長
当時の特許権の存続期間は原則15年でした。池田が出願した特許は大正12年(1923)7月に満了する予定であり、その失効を待ち望んでいた化学工業会社も少なくありませんでした。ところが、この特許権の期間延長が特例として認められたのです。明治時代から昭和初期にかけては、特に公益性が高いと認められた重要な発明に限り、特別立法によって個別に存続期間が延長されていました。これは発明の奨励と国家産業の育成という観点から、功績のあった特定の個人や技術を例外的に保護する措置でした。当時、この制度で期間延長が認められたのは、御木本幸吉の「人工真珠養殖法」の1件だけでした。
すでに池田から基本特許権を譲り受けていた鈴木は、当然ながら特許の延長を望んでいました。自ら宮中や政財界へ働きかけ、その価値を懸命に訴えました。しかし何よりも必要だったのは発明者である池田の承諾です。当時、池田のもとには、大手企業から「特許権が切れ次第、我が社で新たに味の素を製造したい」との打診も届いていました。
鈴木は直々に池田を訪問し、「味の素」を売り出した当初の苦労話を振り返りながら説得にあたりました。なかなか金銭的に池田の功績に報いられなかったが、今後は池田の生きている限り、入用なだけのものをお渡しする旨を約束し、池田の承諾を取り付けました。




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