子どもに多くを求めない。福澤諭吉が実践した「親がすべき環境づくり」とは
- 2026/10/09
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福澤諭吉といえば、『学問のすすめ』の著者であり、慶應義塾を創設した偉大な教育者です。一万円札の顔であったことも記憶に新しいところでしょう。
そんな福澤ですから、幼い頃から大変な勉強家で、自分の子どもや慶應義塾の生徒たちにもしっかり勉強するように厳しく説いていたと思われがちですが、実はそうではありません。今回は、意外と知られていない福澤諭吉の子育て論についてご紹介します。
そんな福澤ですから、幼い頃から大変な勉強家で、自分の子どもや慶應義塾の生徒たちにもしっかり勉強するように厳しく説いていたと思われがちですが、実はそうではありません。今回は、意外と知られていない福澤諭吉の子育て論についてご紹介します。
【目次】
全ての基礎は身体にあり ~まずは獣身を成して後に人心を養う
福澤の教育論の根幹をなす考え方に、「先ず獣身を成して後に人心を養え」というものがあります。「身体が健康であることが第一で、基本は身体である。幼い頃は身体を鍛えることが非常に重要で、あまり早い時期から頭ばかりを鍛えるのはよくない」というのが彼の主張です。人間も動物の子の一種なのだから、まずは「獣らしく」しっかりと発育させなさい、文字による学習はあまり急ぎすぎないように、と説いています。
実際に福澤は、次のように述べています。
「一切動物の飼養法に倣うて発育成長を促し、獣体の根本既に見込みを得たる上にて徐々に精神の教育に及ぶべし」
馬や牛、犬や猫の子を飼うのと同じように、身体の発育を重んじながら、全ての基本を身体において、大切に育てなさいというわけです。
そのため、福澤は5〜6歳くらいの子どもであれば、文字が読めなくても「ものすごく生き生きと活動できる」「どんなことにも積極的である」「他の子どもたちと楽しそうに、上手に遊べる」といった、そうした健全な能力のほうを高く評価しているのです。
家風で品格を育てる ~家風こそ無上の良き教師なれ
福澤は家庭において、知識を無理に叩き込むよりも、家庭内の気風の良さがとても大事だと言っています。福澤自身は天保5年(1834)、豊前中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の家に5人兄弟の末っ子として生まれました。父は大阪にある中津藩の蔵屋敷に勤めていましたが、福澤が数え年3歳のときに病死し、母や兄弟と中津に戻って幼少期を過ごしています。
江戸時代といえば、厳しすぎる罰や体罰によって子どもを縛りつけるような躾をしていた家庭もありましたが、福澤は次のように述べています。
「苟も偽らず、苟も争わず、活発に立ち働きて家人の団欒たること、春風の和するが如く、秋水の清きが如くなれば、柔軟自在なる小児の為めには家風こそ無上の良き教師なれ」
「家人の団欒(だんらん)」という言葉は、江戸時代にはなかった言葉です。明治政府が発足し、英語の「スイートホーム(温かな家庭)」という概念から生まれた言葉のようですが、福澤が唱えた一家団欒は、ただ甘いだけのものではありませんでした。
決して「子どもの頭を良くすべし」とは言わず、「子どもの品格を高くすべし」として「家風を美にして子どもの美質を発生せしむべき」と説いています。
こうした家風の中で育つことで、「我家の子は我家風に対して強壮活溌、清廉潔白ならざるを得ず」――すなわち、強くて活発であり、嘘や表裏がなく、すっきりとしたすばらしい人格が自然と育つと言っています。
自らの子どもに教えた『日々の教え』 ~ひとのものをうらやまない
『ひびのおしえ』は、福澤が自らの息子である長男・一太郎(8歳)と次男・捨次郎(6歳)に対し、毎日一つずつ家庭で守るべき約束事として書き与えた書付です。身体の健康と同様に、徳育(人間教育)も極めて重要だと考えていたことがよくわかります。『ひびのおしえ』の冒頭には、「おさだめ」として次の7つの大切なことが記されています。
1, うそをつかない。
2, ものを拾わない。
3, 父母に聞かないで物をもらわない。
4, ごうじょう(強情)をはらない。
5, 兄弟げんかをしない。
6, 人のうわさをしない。
7, 人のものをうらやまない。
とりわけ福澤は、「うらやむこと(怨望)」が一番いけないと、『学問のすすめ』でも説いています。
自身の子供たちに対しては、早期教育的なことはいっさいやらせませんでしたが、徳育教育はしっかりとやらせていました。礼儀の大切さ、うぬぼれてはいけないこと、威張ってはならないこと、きちんと働くこと、自分で考え自分で判断し実行すること、多様な人と交流すること等、生きていく上で重要なことを教えています。
知育の勉強は後からでも追いつけるが、生きるための基本的な徳育や心のあり方は、幼少期からバランスをとってきちんと教えていかなければいけない、というのが福澤の考えでした。実際、福澤自身も14〜15歳までは手習いも本を読むことも嫌いで何もしなかったのですが、近所の知ってる者が皆、本を読んでいる姿に刺激を受け、一念発起していなかの塾に通い始めると、めきめきと頭角を現していきました。
交際は広くもて ~人にして人を毛嫌いすることなかれ
福澤諭吉は「交際」、すなわち人とのコミュニケーションがとても大切であることを説きました。『学問のすすめ』では、古い友、旧友を忘れないだけでなく、新しい友も求めなさいと述べています。「人に交わらんとするには啻に旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた親友を求めざるべからず」
そして『学問のすすめ』の最終章では次の言葉で締めくくられています。
「人にして人を毛嫌いすることなかれ」
福澤のこのような分け隔てない人間交際のルーツは、彼のお母さんにあります。福澤の母親は、周りが嫌がるようなシラミがわく乞食の女性に対しても嫌がらずに言葉を交わしたり、シラミを取ってあげたりしたこともあったそうです。そうした母の分け隔てない態度が、福澤自身の交際の大きなモデルになったに違いありません。
子どもに多くを求めない ~教育の力は唯人の天賦を発達せしむるのみ
教育において環境が重要なことは言うまでもなく、子どもに合った環境を見つけることに貪欲であってもかまいません。しかし、環境を変えればどんな可能性でも無限に花開くというわけではない、とも福澤は考えていました。「遺伝の際ありて決して其以上に上るべからず」(=つまりはトンビが鷹を産むことはない)といった表現を用いている通り、福澤は非常に現実的な人間でした。子どもには無限の可能性があるからと言って、教育によって人が何にでもなれるわけではなく、「教育とは、その人が持って生まれたものを伸ばすものにすぎない」と言い切っています。
子どもに過度な期待をかけ、本人の向いていないことを無理やり押しつけるのは、子どもに過度な負担をかけるだけで、かえって成長を妨げてしまうことになります。人にはそれぞれ細やかな向き不向きがあります。親の役目とは、子どもの傾向をよく観察してその向き不向きを発見し、得意分野が自然と伸びるような環境を設定してあげること──これが福澤のたどり着いた子育ての哲学なのです。
終わりに
福澤諭吉が生きたのは、幕末から明治維新、そして近代へと移り変わる激動の時代でした。武士の家に生まれ、前半生は暗殺や切り合いが当たり前の幕末を生き抜いた福澤ですが、彼は「人に向かって手を上げたことがない」と語っています。それだけでなく、男尊女卑が当たり前だった当時、9人の子どもたちを男女分け隔てなく育て、貝原益軒の『女大学』のような古い女性観を徹底的に批判しています。家族旅行もしており、63歳のときには「信越、上州に家族と旅行」という記録もあるようです。
このように家族を深く愛し、子どもたちを温かく、かつしっかりと育てた福澤の子育ては、当時にしては非常に画期的でありながら、現代の子育てにおいても大いに通用し、見習うべきヒントにあふれています。知育偏重になりがちな現代の私たちにとって、多くの学びを与えてくれる教えといえそうです。





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