【豊臣兄弟!】茶聖・千利休と織田信長・羽柴秀吉との関係とは?

  • 2026/10/05
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第38回は「和を以って大和をなす」。

 同ドラマにおいて千利休(1522〜1591)は吉岡秀隆さんが演じます。利休は千家流茶道の祖であり、侘茶の大成者として知られています。堺の商人の子として生まれた利休は、17歳の頃から茶の湯を習い、茶人・武野紹鴎に師事しました。利休が初めて茶会を開いたのは、天文13年(1544)のこと。これは奈良の塗師・松屋久政を招いたものでした。利休の運命を大きく変えたのが、織田信長の茶頭となったことでしょう。

 『今井宗久茶湯日記抜書』(同書は偽書との指摘あり)によると、天正元年(1573)11月24日、京都の妙覚寺において信長の茶会が催されます。そこには松井友閑(堺代官)や今井宗久(堺の商人・茶人)・山上宗二(利休の弟子)が招かれました。利休はそこで点前(抹茶を点てる作法・所作の総称)を行ったとあります。信長の命令により、利休は名物の三日月の壺の茶をひいて抹茶を作ったのでした。その後で宗久が濃茶を信長に振る舞います。喫茶した信長は上機嫌だったと言います。信長と利休との交流はそれより以前に始まっており、元亀元年(1570)4月には宗久が信長の御前で利休の「薄茶」を賜っていることから、この頃から信長と利休の交流が始まったとも推定されています。

 信長の茶会には利休の名が頻りに登場してくるのですが、『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)にも利休の名が見えます。同書の天正3年(1575)10月28日条に「宗易」(利休)の名が見えるのです。この日、信長は京都や堺の数寄者(風流人)17人を召し寄せ、妙覚寺で茶会を開きました。その茶会を取り仕切ったのが「茶道」(茶頭=茶事を司る頭)の「宗易」だったのです。この頃には利休が信長の茶頭となっていたことが窺えます。その日の茶会は生涯の思い出となるような素晴らしいものであったようです。

 信長重臣であった秀吉と利休との関係がいつから始まったのかは明確ではありませんが、天正9年(1581)6月、秀吉が播州姫路において催した茶会には「宗易より来候釜」(宗易から秀吉に進上したか)が使われています(「宗及茶湯日記」)。これより以前に秀吉と利休が接触していた可能性があるでしょう。信長は本能寺の変(1582年)でこの世を去りますが、信長亡き後、利休は秀吉に仕え、権勢を誇ることになるのです。

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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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