【家紋】長宗我部元親の家紋はなぜ可憐な「カタバミ」なのか
- 2026/09/14
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
近世を通して土佐国を統治したのは「山内家」ですが、それ以前に四国全土をほぼ統一したとされる戦国大名がいました。その名は「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」。土佐七雄(土佐の主要な七つの豪族)に数えられる長宗我部氏の21代目当主で、一族の最大版図を築き上げた武将です。
長宗我部氏は土佐国土着の勢力であるため、「四国本来の統治者」として現地では今なお根強い人気を誇ります。四国という広大な島を一時はほぼ手中に収めながら、王座に就くことはなかった長宗我部氏。しかしそこには、戦いの日々に疲れ果てたかのような一人の男の悲しい姿がありました。
今回は、そんな長宗我部氏の「家紋」にスポットを当ててご紹介します。
「長宗我部氏」とは
長宗我部(ちょうそかべ)は、大変珍しい氏の名です。土佐国(現在の高知県)長岡郡を拠点とし、「宗我部」の地名が由来とされています。「長岡郡の宗我部」という意味から長宗我部を名乗るようになったとされ、近隣の「香美郡」にも存在した宗我部氏は、香の一字を冠して「香宗我部(こうそかべ)」を称しています。また、長宗我部氏はその祖先を渡来系の「秦(はた)氏」としており、大陸に一族の起源をもつものと伝承されています。
古代にさかのぼる古い氏族ですが、最も勢力を伸ばしたのは先述のとおり、21代目当主・元親の時代です。完全ではないとされる説もありますが、一時は四国の大部分を掌握したといいます。しかし天正13年(1585)、羽柴秀吉の四国攻めに敗れて土佐一国に減封。以降は秀吉傘下の武将として数々の戦いに従軍しています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、元親の跡を継いだ「長宗我部盛親(もりちか)」が西軍に属したものの、戦うことなく西軍が敗北。戦後の処罰により改易(領地没収)となり、直系は断絶しました。しかし傍系は苗字を変えつつ現代まで脈々と続いており、今では「ちょうそがべ」という発音でその家系が受け継がれているそうです。
家紋は可憐な野の花「カタバミ」?
戦国大名らしい武勇と謀略を駆使した長宗我部氏ですが、その家紋は意外にもやさしげでかわいらしい可憐な植物「カタバミ」をモチーフにしています。
クローバーをひと回り小さくしたような葉が特徴的な野草で、夜になると葉を閉じて半分に見えることから「片喰」、葉を食べると酸味があることから「酢漿草」とも書かれます。カタバミの紋は「十大家紋」の一つに数えられるほどポピュラーなもので、その旺盛な繁殖力と生命力にあやかって家運の隆盛を願ったものとされています。
実に多くのバリエーションを持つカタバミ紋ですが、長宗我部氏のものは丸の中に中央の一組を取り囲むようにして6組の葉の一部を配した「丸に七つ酢漿草(まるにななつかたばみ)」と呼ばれるタイプのものです。
他に類似する紋がないことから長宗我部氏の「独占紋」と考えられています。ただし、次代の盛親が通常のカタバミ紋を使用していることから両者を併用していたとの指摘もあります。
また、『土佐諸家系図』によると、「丸に酢漿草」の紋は「丸に七つ酢漿草」の略式紋としています。
おわりに:嫡男・信親の死、希望をなくしたかつての英雄
長宗我部氏の最盛期を築いた元親ですが、史書では「名将」とも「悪人」ともいわれ、歴史的な評価が一定しない人物でもあるようですね。土豪勢力が割拠していた当時の四国を統一直前まで掌握し、豊臣政権下に臣従した後も特にその水軍力で重要な戦闘に貢献するなど、非常に有能な武将であったことがうかがわれます。
しかし、嫡男である「長宗我部信親」が九州の対島津勢戦で討ち死にしたことで、元親は性格が一変したといわれています。それまでの英雄然とした度量やエネルギーを失い、自らも息子の後を追おうとして部下に諫められたり、自身に反対する家臣に苛烈な粛清を行ったりと、一族の主としての常軌を逸した行動が目立つようになります。
秀吉から領地の加増を打診された際もこれを固辞し、晩年の元親はもはやかつての野心的な戦国武将の姿ではなくなっていたようです。しかしいかに戦国の世のならいとはいえ、現代的な感覚からすると息子や家臣たちを失って悲嘆に暮れた元親の心情は、人間として正常だったともいえるでしょう。
幼いころはおとなしく口数も少なかったため、「姫若子(ひめわこ)」というからかい半分のあだ名がつけられていたという元親。長じてのちは領民や一族に対しては篤実で思いやりのある当主だったという伝承もあり、本来は争いを好まない性格の人物だったのかもしれません。そう想像すると可憐なカタバミの紋も、長宗我部元親には何やら似つかわしく思えてしまいますね。




コメント欄