【風、薫る】運命の再会がもたらした看護の道 大関和と知命堂病院
- 2026/08/03
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今回は、大関和が新潟で看護活動を始める契機となった人物、そして実際に行った看護の様子について紹介します。
瀬尾原始との偶然の再会
帝国大学医科大学第一医院を退職して新潟へ赴任した大関和は、高田女学校で舎監として働く一方、廃娼運動の演説会に参加したり、雑誌へ廃娼を訴える記事を寄稿したりと、忙しい日々を送っていました。ある日、和は第一医院で共に勤務していた医師・瀬尾原始と偶然再会します。人力車に乗っていた原始は、実家が「知命堂(ちめいどう)」という医院で、これから往診に向かうところだと話しました。
「知命堂」医院は明治4年(1871)4月、元高田藩士の瀬尾玄弘が自邸で開業したのが始まりです。玄弘は糸魚川藩医・銀林玄類の塾で学び、戊辰戦争では英国人外科医の助手として従軍しました。明治2年に上京して医学を学びましたが、地方の病院施設の不足を痛感し、明治4年に自宅で医院を開いたのです。
その後、明治24年(1891)には玄弘が院主、養子の原始が院長となり、内科・外科・産婦人科・眼科を備えた「知命堂病院」を新たに開院しました。余談ですが、『高田市史』によれば瀬尾家には原始・呂索・雄三・寛之の4人の養子がおり、全員が医学を学んだと記されています。
瀬尾原始は新潟県中頸城郡高城村(現在の新潟県上越市)出身で、旧藩士の次男でしたが瀬尾家の養子となり医学を修めました。帝国大学第一医院では外科助手として勤務し、看護婦養成にも携わっており、大関和とはこの時に親交を深めています。
その後、原始は岡山へ移り、県病院外科部長を務めながら第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)で教鞭をとりました。しかし明治24年10月22日、義父が新築した知命堂病院を継ぐため、岡山から高田へ帰郷することになったのです。
瀬尾原始にスカウトされ、知命堂病院の婦長に就任
偶然にも、大関和が勤めていた高田女学校は、知命堂病院のすぐ近くにありました。新築された洋館の門柱には「知命堂病院」の看板が掲げられ、外観からもその規模と格式の高さがうかがえます。原始は、全国から一流の医師が赴任してくる予定だと語り、和に看護婦長として病院を支えてほしいと申し出ました。看護婦教育に携わった経験をもつ原始は、和のような専門知識を備えたトレインド・ナースの存在を非常に重視していました。元帝国大学第一医院の看病婦取締を務めた和は、原始にとってまさに「喉から手が出るほど欲しい」人材だったのです。
思いがけない誘いに和は驚きつつも、再び看護婦として働く決意を固め、高田女学校を退職しました。
明治24年(1891)11月29日、知命堂病院の開会式が盛大に行われました。多くの来賓や病院関係者が集う中、和は瀬尾原始らへの恩返しと北越地方への貢献を誓い、祝辞を述べています。
瀬尾玄弘が『新潟新聞』に掲載した「知命堂病院開院広告」には、「看護長・大関和」の名が堂々と記されていました。看護婦の名前が広告に載ること自体が珍しく、和の存在が地域にとって大きな期待を集めていたことがうかがえます。
苦しむ幼子にとっさに人工呼吸を行う
最新の設備と一流のスタッフを備えた知命堂病院は評判を呼び、地元のみならず遠方からも患者が絶えず訪れるようになりました。開院から一年ほど経った頃、原始の次男・周治(1歳4か月)の体調が悪化します。初めは風邪だろうと考えられていましたが、次第に異様な咳をするようになりました。「気管支加答児(きかんしかたる)」と診断され、治療が施されたものの症状は改善せず、呼吸は苦しげで高熱にうなされ続けました。
12月に入ると、周治は息ができず激しく喘ぐようになります。看病していた和は、顔色が紫に変わった幼子を前に居ても立ってもいられず、とっさにガーゼを周治の口に当て、自らの口から息を吹き込みました。軽く胸を押さえては再び息を送り込みます。今でいう人工呼吸を何度も繰り返すと、周治は少し楽になった様子でウトウトと眠り始めました。原始は、和の迅速な処置に深く感心したといいます。
しかし、12月7日の夜、周治は息を引き取りました。原始は悲しみに沈みながらも、医学研究のため周治の遺体を解剖する決断をします。9日には郡病院院長・木村武夫が執刀し、主治医であった内科医・信原儀六郎が助手を務めました。
和は、自分が必死の思いで看護した周治の遺体が解剖されることに耐え難い思いを抱いていました。医学の発展のためと頭では理解していても、感情が追いつかないのです。
解剖が終わると、周治の亡骸は菩提寺へ送られました。原始の妻・ソノはこみ上げる涙を必死にこらえながら、周治を見送っています。わが子を失い悲しみに耐える母親のその健気な姿を前に、和はただ涙をこらえることしかできませんでした。
12月13日、知命堂病院は開設から一年を迎え、それを機に事業拡張が決定されました。『高田新聞』の広告には、往診料の減額に加え、貧困者の薬代や治療費の減額、あるいは施療(無料診療)を行う旨が記されています。第一医院時代、貧困者に自らの給料を削ってまで奉仕した和にとって、この事業拡張は何よりの喜びとなりました。
知命堂病院産婆看護婦養成所で講師を務める
明治27年(1894)4月、瀬尾原始は「知命堂病院産婆看護婦養成所」を開設し、自ら所長に就任しました。原始はすでに明治22年には帝国大学第一医院、明治23年には県立岡山医学校の看護婦養成所で教育に携わっており、看護婦教育の分野では経験豊富な存在でした。当時、看護婦志願者が増えた背景には、同年8月1日に始まった「日清戦争」の影響があります。開戦と同時に、日本赤十字社(以下、日赤)は広島・松山・名古屋へ自社で養成した看護婦を派遣しました。戦争は翌明治28年4月17日に終結しますが、日赤看護婦の救護活動は新聞や雑誌で広く報じられ、看護婦のいない地域でも志願者が続々と現れるようになったのです。
知命堂病院には、当時としては珍しく独立した看護婦室が設けられ、看護婦が専門職として認められる環境が整っていました。明治29年の赤痢大流行時には、知命堂病院の看護婦が大いに活躍しており、同院で高度な教育が行われていたことがうかがえます。
産婆看護婦養成所の入学者は全員給費生で、入学資格は高等小学卒業または女学校卒業者でした。卒業生の多くは慣例に従い、まず知命堂病院に就職しましたが、その後は各地の病院へと転じていきました。
当時の知命堂病院における看護婦の給与は、明治35年9月時点で6〜10円でした。他の職員の給与は以下の通りです。
- 院長:不定
- 医員:30〜40円
- 薬局長:40円
- 事務員:9〜15円
- 看護婦長:10円
- 産婆:8円
- 看護婦:6〜10円
- 給仕:3円
- 小使:7〜8円
なお、当時の米価は1升12〜14銭でした。
「知命堂病院産婆看護婦養成所」は、新潟県で初めて産婆と看護婦を養成する機関であり、ここで和が講師を務めたことは言うまでもありません。彼女は看護婦として働きながら講師も兼任し、在任中に200名余りの看護婦を育成しました。




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