【風、薫る】鈴木雅が私財を投じて「慈善看護婦会」を設立した理由
- 2026/08/07
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明治時代、日本の医療はまだまだ発展途上にあり、貧しい人々には適切な看護が届かない時代でした。そんな中、鈴木雅が設立した「慈善看護婦会」は、病院の外へ看護を広げる画期的なシステムであり、現在の訪問看護の原点ともいえる大改革でした。
なぜ、彼女はこの組織を作ったのでしょうか?鈴木雅が全財産を投じて設立した「慈善看護婦会」について紐解きます。
第一医院を辞め、留学する予定だった鈴木雅
帝国大学第一医院で看護婦の待遇改善を訴えた大関和が退職してから3ヶ月後の明治24年(1891)2月、鈴木雅も看護婦取締の職を辞し、第一医院を去りました。
雅は女子学院となった桜井女学校を訪れ、経営者マリア・ツルーが新たな看護学校設立のため寄付金を募りに渡米する予定だと知ります。しかし、このときすでにツルーは体調をくずしており、20日以上の船旅を周囲の人間は非常に心配していました。
フェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院)で学び英語が堪能だった雅は、以前から留学を望んでいました。彼女にとってツルーの渡米は絶好の機会であり、彼女に同行してアメリカで看護学を学ぶことを思いつきます。
夫を亡くし、和と同じく二児を育てるシングルマザーだった雅ですが、子どもたちは寄宿舎生活を送っており、長年の夢だった留学を実現できる機会がやってきたのです。
天然痘患者の看護で使命に目覚める
4月11日の渡米を控え、準備を進めていた雅は、前日に横浜へ向かった際、人力車と衝突し脳震盪を起こします。人力車に乗っていたのは居留地で診療所を営む米国人医師ウィリアム・ブレイズで、雅はその場で手当てを受けました。ブレイズから天然痘の発生を聞いた雅は、看護婦として力になりたいと考え、彼を追って現場へ向かいます。貧民窟では発熱や頭痛を訴える住民が次々と現れ、隔離と治療が急務でした。劣悪な衛生環境を目の当たりにし、雅はナイチンゲールが説いた環境改善の重要性を痛感します。
大病院から痘苗が届き、ブレイズが種痘を進める一方、患者は増え続けました。雅は感染の危険を考慮し、渡航を断念します。女子学院のマリアへ電報を送るよう依頼しましたが届かず、雅は一時「行方不明」と扱われてしまいます。
それでも雅は着の身着のままで2週間、看護と種痘に尽力しました。流行は収まらず、この天然痘禍で横浜市民1万1601人が種痘を受け、117人が命を落としました。
全財産を投じて「慈善看護婦会」を設立
当時、上流階級では病院に入院することは少なく、看護婦を自宅へ招いて療養するのが一般的でした。慈恵医院は、大山捨松ら政府高官の妻の後援を受け、上流家庭へ看護婦を派遣していました。看護婦は数ヶ月にわたり家に滞在することもあり、食事の準備まで担う場合もありました。
上流家庭で働く看護婦には上品な立ち居振る舞いが求められ、慈恵医院看護婦養成所では行儀作法の訓練が厳しく行われました。「恐れ入ります」で始まり「恐れ入ります」で終わる“慈恵言葉”を身につけた看護婦は一流とされ、月給は25円。外交官や貿易商の家庭に同行し、海外へ渡る例もあったといいます。
しかし、こうした手厚い看護を受けられる一部の上流階級や富裕層がいる一方、貧しさゆえに病院に行くことすらできず、自宅で適切な手当ても受けられないまま亡くなっていく一般庶民や貧困層が溢れていました。
熱心なキリスト教徒であった雅は、横浜の貧民窟を目にして自分の使命は慈善看護だと確信しました。そして、病院に通えない患者のもとへ看護婦を派遣し、必要に応じて医師につなぐ仕組みを作りたいと考え始めます。
病院の中で待っているだけでは、本当に医療を必要としている人に届かない──。
その強い信念から、雅は夫の遺産をすべて投じ、明治24年(1891)11月、東京本郷に日本初の個人経営による「慈善看護婦会(のちの東京看護婦会)」を設立したのです。
慈善看護婦会には雅の理念に共感した帝国大学第二医院で働く数人の看護婦が集まりました。看護料を払えない家庭には無償で派出するため、帝大病院で働く彼女たちが休日に協力し、月給三円ほどで働いてくれたのです。
それでも経営は厳しく、雅は採算を取るため裕福な家庭から適正な報酬を得る料金表も用意しています。看護婦を四等級に分け、1日あたりの派出料を1等70銭、2等50銭、3等30銭、4等20銭とし、伝染病の場合は割増料金を設定しました。
「慈善看護婦会」の何が画期的だったのか?
雅が立ち上げた「慈善看護婦会」は、当時の社会において極めて先進的でした。それまで病院に所属して働くのが一般的だった訓練されたプロの看護婦を、雅は必要とする患者の自宅や病院へ直接派遣・斡旋するという仕組みを作り上げたのです。
また「慈善」の名が示す通り、当初は経済的に苦しい人々に対して無料で看護を提供していました。しかし、それでは経営は成り立ちません。そこで雅は、経済的に余裕がある富裕層からは正当な料金をもらい、その利益で貧しい人々を無償で支えるというビジネスモデルへと舵を切っていきました。
さらに雅は海外の情報を研究し、会則に「看護以外の雑用の禁止」「重病人を看護する際の休憩確保」などを明記しました。世間における看護婦への認識が低かった当時、女性がプロの看護婦として、技術を持って誇り高く、かつ自立して働ける労働環境を保障したのです。
おわりに
慈善看護婦会の運営は決して容易ではありませんでしたが、看護婦たちの献身と専門性は評判を呼び、設立から3ヶ月後には依頼が途切れなくなるほどになりました。明治時代、鈴木雅が私財と人生を投じて築いた「慈善看護婦会」は、単なる看護婦派遣業ではありませんでした。貧しさにかかわらず、誰もが適切なケアを受けられる社会、そして女性が専門職として自立できる社会を同時に目指した、時代を先取りする大改革だったのです。




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